吉備の豊酒(きびのとよざけ)について(2001年10月号)
宮下酒造株式会社
社長 宮下 附一竜
今月は万葉集に出てくる「吉備の酒」についてお話したいと思います。
古代吉備国は今の岡山県(備前、美作、備中)と広島県の一部(備後)をあわせた広い地域に形成された勢力で、大和政権に匹敵する力があったと言われています。 稲作の発達していた吉備国の豊酒はそのころより有名であったと思われます。 その証しに、万葉集(巻四 五五四)に丹生女王(にふのおおきみ)が九州の大宰府の長官大伴旅人(おおとものたびと)に贈った次の歌があります。
古人(ふるひと)の 飲(たま)へしめたる 吉備の酒
病(や)めばすべなし 貫簀(ぬきす)賜(たば)らむ
歌の意味は「古人」(昔の人)すなわち大伴旅人から吉備の酒を贈られた丹生女王は遠い人を思って独酌したが、 飲みすぎて酔ってしまったので、貫簀をいただきたいということのようです。ここで問題は「貫簀」とは何かということになります。 広辞苑によると、貫簀とは竹で編んだむしろのことで、手洗水などが飛び散らないように、盥(たらい)の上などにかけるものということになります。 そこで、飲みすぎて貫簀をいただきたいということは、反吐(へど)を吐きたいために貫簀が要るのではないかと解釈でき、少しはしたない歌ではないかと考えられていました。
ところが、季刊文学増刊の「酒と日本文化」の中で、大谷雅夫氏は、「貫簀」とは、平安時代以後の手水の具とは異なり、 奈良時代では寝台に用いる敷物であったと考えられると書いています。 そうすると、酔ってしまったので、身を横たえたいので肌に心地よい貫簀をいただきたいという理解になります。 平安時代には失われた唐風の寝台の文化がこの歌の背景にあったと述べています。
以上今月は古代からその名の知られていた「吉備の酒」についてお話させていただきました。