JBA設立20周年記念卓話
JBA設立20周年記念卓話
「クラフトビールとは何か」
JBAの初代会長を務めさせていただきました、宮下です。今年、JBAは設立20周年を迎えたことになり、田村会長より当時の話をしてほしいとの要請がありここに立たせていただいています。
JBAは1999年(平成11年)3月9日キャピタル東急ホテルにおいて、地ビール醸造者96社、賛助会員21社、総勢150人が集まり創立総会を開催いたしました。当日はテレビ朝日が中継車を出してくれ大変な騒ぎでした。国税庁の「酒のしおり」によると、当時全国に地ビール業者は263社あり、醸造者数は過去のピークを迎えていました。全業者に入会の案内を出しましたが、入会者は96社で組織率は約37%でした。
翻って、この20年間を顧みてみると、1990年のバブル崩壊後、平成不況ということで日本中がデフレ社会となり、「失われた二十年」と呼ばれる大変厳しい経済環境の中でした。平成7年地ビール発売の年に、サントリーが350ml当たり酒税24円26銭安い発泡酒<ホップス>を全国発売しており、続いてサッポロビールは発泡酒<ドラフティー>で対抗、それ以後ビール・発泡酒・新分野の三分野での大手ビールメーカー各社の価格競争が激化して今日に至っています。また、清酒においても、平成8年増量2Lパックが登場し、パック戦争による低価格競争と不毛な消耗戦は今も続いています。正に平成の時代において、酒類業界は「レッド・オーシャン」の大海で、生き残りをかけた価格競争に明け暮れた時代であったといえます。「利欲は終わりなき利欲を誘う」といわれますが、利欲でない「工芸の美」を追い求める「クラフトビール」とは、かけ離れた別世界のことであると思います。
こうした状況の中で、平成7年地ビールはスタートをきり、最初の三年間は地ビールブームともいえる現象が起こりました。しかし平成11年頃をピークに地ビールブームも段々と終息に向かい、苦境に陥った業者の廃業が続きました。大手ビールとは考え方の違う地ビール業界でしたが、同じく厳しいデフレ時代の激変の渦の中を通り抜けなければならなかったと思います。その厳しい環境の中で、平成15年4月から実施され、現在まで続く地ビール減税の実現は、皆様に少しでもお役に立つことができたのではないかと考えています。
次に、「クラフト」という言葉について簡単にふれてみたいと思います。
我々が地ビールを始めた頃にはすでに、マスコミにおいて「地ビール」という言葉が、マイクロブルワリーやパブブルワリーの総称の日本語として広く使われるようになっていました。また、日本酒の「地酒」という言葉が連想され、分かり易い言葉として「地ビール」という言葉が普及したのではないかと考えています。この「地ビール」という言葉を利用したほうが良いのではないかとみんなで協議し、JBAの日本語名を「全国地ビール醸造者協議会」と名付けることになりました。
ところが、近年「クラフトビール」という呼び方が「地ビール」に代わって頻繫に使われるようになってきました。しかし、「クラフトビール」という呼び方にきちっとした定義がないので、「地ビール」と「クラフトビール」という言葉が各人によって恣意的に使われ、混乱しているように思います。「クラフトビール」の定義付けをきちんとすることが、JBAにとって、今とても大切な役割ではないかと思います。これからの皆さんの活発な議論を期待します。
ところで、英語のCraftとは、工芸という意味ですが、柳宗悦(やなぎむねよし)氏は「工藝の道」という本の中で、「用の美」の発見が大切であると述べています。ビールを器と同じようにクラフト、工芸品といえるかどうかは定かではありませんが、柳宗悦氏の昭和2年に書かれた「工藝の道」という本の内容は参考になると思います。柳氏は「美は用の現れである。用と美と結ばれるもの、これが工藝である」と実用の中に美を見出すことの意義について繰り返し述べられています。
日常生活において飲まれるビールの中に、「用の美」を見出すことができれば、ビールをクラフトと呼んでもよいのではないかと私は思います。実用品であるビールに、私たち醸造者が「何か美しいもの、何か新しい価値」を付加することができれば、そのビールを「クラフトビール」と呼んでもいいのではないかと考えます。
それでは「何か美しいもの、何か新しい価値」とはどんなものをいうのでしょうか。柳さんは、それは「地方色」でもよいし、「よい材料」を使うことでもよいし、「伝統の力」でもよいとヒントをくれています。しかし、私は、「用の美」は自分自身で考え、発見していかなければならないものだと思います。自分自身の個性的な「用の美」を発見し、ビールに付加することができれば、それは「クラフトビール」、工芸のビールと呼んでもいいのではないかと思います。