大伴旅人と吉備の酒(2014年3月号)
宮下酒造株式会社
社長 宮下附一竜
大伴旅人は万葉集の中に「酒を讃むるの歌13首」を詠んでいますが、その中に「酒の名を 聖と負せし 古の 大き聖の 言のよろしさ 3-339」という歌があり、弊社の酒名にある「極聖」はこの歌からとっています。また、他に「験(しるし)なき 物を思はずは 一坏(ひとつき)の 濁れる酒を 飲むべくあるらし 3-338」(考えても仕方がない物思いをしないで、一杯の濁り酒を飲むのがよいらしい)と詠んでおり、奈良時代には一般的には濁り酒を飲んでいたようですが、清酒(すみざけ)もあったようです。
丹生女王の大宰帥大伴卿に贈れる歌に「古人の 飲へしめたる 吉備の酒 病めばすべなし 貫簣(ぬきす)賜らむ 4-554」があります。古人は大伴旅人のことであり、旅人が吉備の酒を丹生女王に贈ったことがわかります。大伴旅人から吉備の酒を贈られた丹生女王は、遠い人を思って独酌して酔ったので、身を横たえるべく敷物である貫簣をいただきたいという意味だと思われます。万葉集には、「能登国歌」の中に熊来(くまき)酒屋(16-3879)という言葉がでてきますが他にはなく、奈良時代に吉備豊酒が都において有名だったのではないかと思われます。
大伴旅人は、727(神亀4)年、大宰帥に任命され九州に下向、730(天平2)年12月大納言に任ぜられ都に帰還しています。その上京の折、吉備の児島を通っており、「大和路の 吉備の児島を 過ぎて行かば、筑紫の児島 思ほえむかも 6-967」と詠んでいます。旅人は瀬戸内海を船で航行しており、古代においても畿内から北部九州そして朝鮮半島を結ぶ航路として瀬戸内海が重要な交通ルートであったことがわかります。「児島津」は現在の岡山市南区郡地域と考えられますが、児島屯倉のあったところで、七世紀瀬戸内海航路の最大の港であったと思われます。私は旅人の「吉備豊酒」は児島津で造られていたのではないかと推察しています。時代は戦国時代に戻りますが、1598年豊太閤の醍醐の花見に、宇喜多秀家によって出品された「備前児島酒」もやはり郡地区で造られたお酒でした。
ところで、吉備の国は弥生時代後期に勃興し、五世紀前半に、日本で四番目に大きい造山古墳、九番目の作山古墳などの前方後円墳が造られる絶頂期を迎え、五世紀後半には没落していきます。万葉集の第一首は雄略天皇の歌ですが、日本書記によれば雄略七年から三年間吉備はヤマトと敵対し(吉備の反乱)、鎮圧されることになります。その鎮圧に功があったのが大伴室屋であり、旅人の6代前の先祖ですので、旅人は吉備との縁があったのかもしれません。
奈良時代の酒はどのような酒だったのでしょうか。「正税帳」(しょうぜいちょう)は律令体制下において、国司が地方諸国に備蓄されたコメの管理・運用状況を太政官に報告するために作成された公文書です。現在天平年間の正税帳が二五通残されていて、この諸国正税帳の中に酒のことが記載されています。それによると、奈良時代には全国的に酒造りが行われ、麹歩合や汲水歩合から今の酒に比較して、味が濃く、甘い酒であったことが想像されます。