第10回岡山市内三法人会青年部会合同研修会資料(2015年2月号)
宮下酒造株式会社
社長 宮下附一竜
「Think globally, act locally」(着眼大局、着手小局)
“Watch out! This could get very dangerous if you are not thoughtful. If you are thoughtful, then you can create a new world.” Henry Kissinger
1.60代の論語(齋藤孝)
・春秋戦国時代、73歳で没した孔子の言葉は、長寿社会の今日においても学ぶことが多い。
・六十歳を過ぎたら人格勝負、「君子、重からざれば則ち威あらず。学べば則ち固ならず」(君子は中身に重厚さがなければ、威厳がない。学べば頑固でなくなる。)
・論語には、初老期に「いよいよ人格を磨くときがきた」という思いを強くする効果がある。「道に志し、徳に拠り、仁に依り、藝に遊ぶ。」(学問を修めるとは、正しい道を志し、身につけた徳を拠りどころとし、私欲のない仁の心に沿って、礼・楽・射・御・書・数の六芸を楽しみ、その幅を広げることである。)
・人の言葉を素直に聞く。「吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順がう。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。」
・ところで、私にとっての「天命を知る」とは、「自分の生れ育った風土や置かれた環境を宿命として背負い、その上で果たすべき自分の歴史的使命を悟ること。」「あきらめと覚悟」――宿命はささやかな使命になるのです。
2.根本原因分析
・根本原因分析(RCA:Root Cause Analysis)とは、一般的な問題の要因分析でなく、“なぜ”を何回も繰り返すことによって、根っこにある本当の原因にたどり着こうとする思考法のこと
・根本原理分析(Root Principle Analysis)とは、日本人論、日本文化論、日本文明論など日本人の基層、深層にある根本思想を読み取ろうとすること。
・「私は文明史とは何かを考えるとき、最少の時間単位として、一千年の単位が不可欠と考えることにしている。歴史の転換期には、通常よりもずっと大きな視野から歴史をみること、そして、時代の底に流れ歴史を動かしているものを深く考えなければならない。今日本人に必要なことは、文明的視野をもってこの時点を捉え直すことである。」(国民の文明史、中西輝政)
参考文献
日本人論――「日本」とは何か(網野善彦)、日本辺境論(内田樹)
日本文化論―日本文化の歴史(尾藤正英)、日本人の宗教とは何か(山折哲雄)
日本文明論――文明の環境史観、稲作漁撈文明(安田喜憲)
3.「動物文明」と「植物文明」
・畑作牧畜文明とは、麦を造り、パンを食べ、ミルクを飲み、肉を食べる食生活を基本としヒツジやヤギなどの家畜を飼う動物文明であり、世界四大文明(メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、黄河文明)を含む。ヒツジとヤギの放牧によって、森は破壊され、水の循環系も破壊された。
・稲作漁撈文明とは、米を食べ、ヒツジやヤギをかうことなく、魚にタンパク源をもとめた植物文明である。長江文明は稲作農耕の起源地であり、縄文文明は狩猟・漁撈・採集を基本生活とし、クリ、ドングリ、トチノキなどを半栽培し、アサ、エゴマ、ヒョウタン、マメ類の栽培し、漁業資源を利用する半栽培漁撈文明である。マヤ文明とアンデス文明はジャガイモとトウモロコシを主食としミルクを飲まない文明である。
4.長江文明と縄文文明
・長江中流域の八十とう遺跡、彭頭山遺跡から出土した炭化米の測定の結果、稲作の起源は8500年前までさかのぼることができ,長江下流域の河姆渡遺跡より1000年程度古いことがわかった。彭頭山遺跡は4200年前に放棄されているが、気候の寒冷化によって北方の金属製武器をもった畑作牧畜民の南下したことによるのではないかと考えられている。1980年代までは「インドのアッサム、雲南起源説」が有力であったが、今日では長江文明が稲作の発祥地とされ、日本へは東シナ海を越えて直接伝来したという説や朝鮮半島南部を経て九州へ伝わったという説が有力である。
・九州北部の板付遺跡や菜畑遺跡から日本最初期の水田跡が発見されているが、3000年前の縄文時代晩期には稲作が行われていたことが分かってきた。日本の稲作は2300年前朝鮮半島より弥生人によってもたらされたというのが通説だったが、はるかそれよりも前の時代に伝来していたことになる。朝鮮半島から弥生人が大挙してやってきて、縄文人を追い払ってしまってという話ではなく、弥生文化を担った主体は縄文人である。狩猟生活が主だと思われてきた縄文人の生活は、実際はかなり弥生人の生活様式と重なり合っていたことになる。
5.縄文文明に学ぶ
・縄文時代の人々は狩猟・漁撈・採集活動と堅果類の半栽培を生業の基本とし、森と海の資源を極限にまで循環的に利用する技術を有し、平等主義に立脚し、戦争を回避する社会制度を維持し、土器作りや芸術活動に異常なほどのエネルギーをかたむけ、大規模な木造建築物を造り出す技術を有していた。そして女性中心の社会であり、生命の誕生と死をもっとも重要なことがらと考え、アニミズムの世界観を共有し、生きとし生けるものの命に畏敬の念をもって自然と調和的に生きていたのである。しかも、こうした生活が1万年以上にわたって北海道から沖縄にいたる広い範囲でくりひろげられたのである。縄文土器の分布する範囲こそ日本固有の領土であると言っても過言でない。こうした縄文時代こそ、現代の文明が見失ったものをその文明原理の根幹に持ち続けた文明なのではあるまいか。地球の気候が寒冷な氷河時代から、後氷期とよばれる温暖な時代に大きく移り変わる激動の晩氷期に、縄文時代は始まる。16,500年前に土器革命をなしとげ、15,000年前には定住革命を成し遂げた。この土器革命と定住革命こそ縄文人が世界に先駆けた技術革新であった。(安田喜憲「稲作漁撈文明」)
<縄文の文明原理> ――――――― <現代社会の課題>
- 自然と人間の共生 ――― 環境破壊・地球温暖化・太陽光エネルギー
- 森と山の文化 ――― 里山資本主義(藻谷浩介)「農」の風景(村上進通)
- 海の文化 ――――――― 文明の海洋史観(川勝平太)
- 平等主義 ――――――― 格差の無い社会の実現、地方創生、資本主義はなぜ自壊したのか(中谷巌)、21世紀の資本(トマ・ピケティ)
- 土偶は母性像、母系制社会――女性の登用
- 土器づくり ――――――― 日本料理の原点、囲炉裏と家族団欒
- 一万年続いた縄文時代 ―― 戦争のない平和な社会
- 異文明との融合 ――――― ハイブリッド車、新結合(イノベーション)
6.縄文人はどこから来たか
7.日本文明論
- 日本文化の基層には縄文時代以来の森の文化の伝統が流れている。縄文の森の文化の中に、弥生の稲作を取り込んだのである。(文明の環境史観)
- 日本人は辺境人である。(日本辺境論 内田樹) 辺境人を意識した日本人は、かつて中国文明を翻訳し、明治以降は欧米文明を翻訳し、外の正統的文明を必死に学んできた。翻訳することはそれを日本化することである。外国のものをそのまま受け入れず、日本的なものと折衷し、和漢折衷、和洋折衷の文化を作ってきた。(辺境から中心へ 榊原英資)
- 日本文化は習合文化である。朝鮮半島や中国大陸や太平洋諸島などからの人々と文化・文明の流入により、きわめてハイブリッドな習合文化が生じている。このような多層多元的な習合構造の中に、習合的宗教文化としての神道や神仏習合や神儒仏習合が成立してきた。(日本人の宗教とは何か)
- 日本文明の特徴は、「孤立する国家」、「西欧化しない日本」「革命のない国家」家族をもたない文明である。(文明の衝突と21世紀の日本、ハンチントン)
- <参考>538年仏教伝来、630年第1回遣唐使派遣、702年倭国から日本、712年古事記、720年日本書記、794年平安京遷都、894年遣唐使停廃、1178年朱子「論語集註」、1467年応仁の乱、1605年林羅山出仕、1635年鎖国令、1868年神仏分離令、1875年「文明論之概略」
8.文明の環境史観
- 文明の環境史観とは、文明や歴史をその舞台となる自然環境との関係を重視する史観である。安田喜憲氏は年縞の分析によって、過去の気候変動や森林の変遷あるいは海面の変動などを復元することによって、古代文明を解明しようとしている。年縞とは、湖底に毎年毎年静かに形成された年輪と同じものである。その年縞には、花粉、珪藻、プランクトン、ダスト、大型動植物遺体、粘土鉱物などが含まれている。
- 人類は猿人(700万年前)―>原人(250万年前)―>旧人(50万年前)ネアンデルタール人―>新人(ホモ・サピエンス)(20万年前に誕生、10万年前頃に西アジアを経て、ユーラシア大陸を東西に広がった。アジア大陸を東進した新人は、アジア南方を起源とする古モンゴロイドとして約4万年前に日本に渡来した。
- 7万年~2万年前ヴュルム氷期といわれ、厳寒期には海水が100m以上低下し大陸と日本列島がつながっていた。ヴュルム氷期が終わり日本列島は温暖化に向かい、土器や磨製石器の縄文時代が始まった。日本最古の土器は約16500年前ともいわれる青森県の太平山元(おおだいらやまもと)遺跡出土の土器片である。(放射性炭素年代測定法、C14)
- 日本の土器文化は、16500年前の気候の温暖・湿潤化とブナ等の温帯落葉広葉樹の森の拡大の中で誕生した森の文化である。約12000年前ヤンガー・ドリアス小寒冷期に、長江中流域において稲作農耕が始まったが、日本の縄文人は食料が豊富にあったせいか、農耕革命が起こらなかった。
- 寒冷期は5700年、4200年、3200年前に訪れている。三内丸山遺跡は5500年前~4000年頃まで1500年続いたといわれるが、4200年前の気候の冷涼化によって、クリの不作にみまわれ、縄文中期の文化に壊滅的打撃を与えた。
- 稲作はいつごろ日本に伝来したのであろうか。九州北部の福岡県板付遺跡や佐賀県菜畑遺跡から、日本最初期の水田跡が発見されている。炭素測定法によって、3000年前縄文晩期のものと考えられるようになってきた。岡山県総社市の南溝手遺跡からも縄文晩期のコメの籾殻の圧痕やイネのプラントオパールが発見されている。水稲栽培をもたらしたのは、大陸からわたってきた弥生人で、縄文人は渡来系弥生人のもたらした水稲耕作を受け入れた。
9.孤立国家・日本の特徴
「文明の衝突と21世紀の日本」(サミュエル・ハンチントン著より)
- 孤立する国家・日本
他のすべての主要な文明には、複数の国が含まれる。日本が特異なのは、日本文明が日本という国と一致していることである。国と文明の独自性の結果として、日本は他のどんな国とも文明的に密接な関係をもっていない。共通の文化を分け合っている国々は、高いレベルで信頼しあい、親交を深め、よりたやすく協力しあい、必要な場合にはたがいに支援を与えあう。 - 西欧化しない日本
日本が特徴的なのは、最初に近代化に成功した最も重要な非西欧の国家でありながら、西欧化しなかったという点である。西欧化せずに近代化を成し遂げることは、1870年代以来の日本の発展の中心的なテーマだった。その結果できあがった社会は、近代化の頂点に達しながら、基本的な価値観、生活様式、人間関係、行動規範においてまさに非西欧的なものを維持し、おそらくこれからも維持し続けると考えられる社会である。 - 革命のない日本
日本には革命がなかった。日本の近代化は、上から課された二つの主要な改革時代――明治維新と米軍による占領――のなかで進められたのである。社会を引き裂くような苦しみと、流血をともなう革命がなかったことで、日本は伝統的な文化の統一性を維持しながら、高度に近代的な社会を築いたのである。 - 日本は家族を持たない文明である。
他の国とのあいだに文化的なつながりがないことから、日本にとっては難題が生じ、また機会がもたらされている。