鴻池と近世酒造業(2014年5月号)

宮下酒造株式会社
社長 宮下附一竜

平成26年のNHKの大河ドラマでは「黒田官兵衛」が放映されていますが、5月初めの放送で、別所長治の離反によって、織田信長は三木城攻略を優先するように命じたため、尼子勝久・山中鹿介らの守る上月城は孤立無援なり、毛利軍によって陥落させられる場面がありました。「願はくは我に七難八苦をあたえ給へ」という名文句で有名な山中鹿介は囚われの身となり、備中阿井(岡山県高梁市)の渡しで殺害されます。その鹿介の長男とされる山中幸元は、武士をやめ鴻池新六と名前を変え、荒木村重の城下町であった現在の伊丹市鴻池で酒造業を始めることになったといわれます。

ところで、室町時代1425年に調査した資料(北野神社西宮神人の調査した酒屋名簿)によると、京都の洛中洛外に中世的酒屋は342軒あったといわれています。その中でもっとも評判が高かったのが、門前に大きな柳の木があったことから「柳酒屋」と呼ばれた酒屋で、「柳酒」という酒銘はわが国の商標の始まりではないかといわれています。

ところが、応仁の乱(1467~77)によってこれらの酒屋は大きな打撃を受け、西宮の旨酒、河内酒、大津酒などの「いなか酒」が洛中に進出することになりました。「甫庵 太閤記」によると、1598年豊臣秀吉の開いた醍醐の花見に出品された酒は「加賀の菊酒、天野、平野、奈良の僧坊酒、尾道、児島、博多のねり酒等」でした。ちなみに児島とは児島名酒として知られた備前児島郡郡村でつくられたお酒です。1595年宇喜多秀家は郡の酒屋を岡山城下に移転させていますが、戦国武将の居住する地方都市の城下町に酒屋が集められ、築城と町割りが行われました。ここにおいて、荘園領主体制のもとで発展した中世的酒屋が没落し、戦国大名の城下町に集められた商工業者による近世酒造業の展開が始まることになるのです。

江戸時代に刊行された「日本山海名産図会」によれば「江府に売始しは伊丹隣郷鴻池村山中氏の人なり、その起る時はわずか五斗・一石を醸して担ひ売をし、或は二十石、三十石にも及びし時は、近国にだに売りあまりたるによりて、馬に負ふせてはるばる江府にひさぎ、図らずも多くの利を得て、その価を又馬に乗せて帰りしに、江府ますます繁昌に随ひ、石高も限りなくなり、富巨万をなせり」と書かれており、鴻池によって始められた江戸積酒造業は、江戸時代の初期から中期にかけて、伊丹、池田の諸白が下り酒の中心地となっていくのです。

18世紀後半になると灘酒が台頭を始め、19世紀前半発展期を迎え、江戸下り酒100万樽のうち七割までを占めるにいたったといわれています。江戸時代後期に灘酒造業が発展したのは、お米が豊作になり米価が下落したため、幕府が造石を奨励した時を機敏に捉えたこと、水車精米によって大量かつ高精白の精米が可能になったこと、そして江戸積輸送に有利な樽廻船という輸送体系を開拓したことにあるといわれています。

ところで、酒造業を始めた山中鹿介の子である新六には、多数の男子があり八男の鴻池善右衛門は大阪に出て、両替商に転じ江戸時代の日本最大の豪商に発展したといわれます。例えば、岡山藩においても、鴻池より莫大な借金をしており、藩の商品の売買の代行する商人である大阪蔵元は鴻池が独占的にとりしきっていたようです。鴻池は明治になって鴻池銀行となり、合併して三和銀行となり2001年UFJホールディングスとなり、現在は三菱UFJフィナンシャル・グループとなっています。

「故きを温めて新しきを知る、以て師と為すべし」とは論語の中での孔子のことばですが、過去の歴史や伝統をもう一度考えなおして、新しい意味を知ることも現在の私たちに意義あることではないかと考えています。

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