酒税と西洋事情(2005年8月号)
宮下酒造株式会社
社長 宮下附一竜
福沢諭吉先生が「西洋事情」を刊行したのは、慶応二年(1866)のことである。 「西洋事情」は大ベストセラーになり、この本によって、西洋の政治、風俗が紹介されたのである。 福沢先生が咸臨丸に乗ってアメリカに行ったのは、1860年のことであり、幕府の遣欧使節団の一員として、ヨーロッパに出帆したのは、1862年のことである。 この旅行の見聞が元になって「西洋事情」が出来上がるのである。
さて、「西洋事情」の初編巻之一において、「政治」に続いて取り上げられているのが、「収税法」である。 「西洋各国は工作貿易を以て国を立るの風にて、其収税の法、日本、支那等の制度に異なり。 今ここに英国の税法を挙て一例を示す。」とイギリスの税制について説明をしている。 そして、酒類や煙草に運上金が重くかけられていることが紹介されている。
「例えば麦酒百樽を醸すものは一ポンド十一シルリングの運上を納め、千樽以下を醸すものは二ポンド二シルリング、四萬樽以上を醸すものは七十八ポンド十五シルリングを納む。 官許の運上とは、商売柄により官府の免許を受けて別段の運上を出すものを云ふ。」
ところで、慶応四年(1868)一月、鳥羽・伏見の戦から戊辰戦争が始まり、明治新政府が徳川幕府を倒すことになる。 この戊辰戦争で膨大な戦費を使った新政府は、税収の増大を図ることが焦眉の急となる。 当時地租が主な収入であったが、地租を上げることの難しいことを理解していた新政府が目をつけたのが「酒」であった。 新政府は慶応四年五月に「商法大意」を布告し、新しい商工政策を示し、幕藩体制下の株仲間を解散し、営業の自由を承認した。 しかし、「酒」については、同時に「酒造規制五ヶ条」を発令し、旧幕時代の酒造株を新たに酒造鑑札として、その書換料を徴収することにした。
その後、明治四年(1871)には、株鑑札を廃止し免許鑑札制度を定めた「清酒、濁酒、醤油鑑札収与並ニ収税方法規則」を定めた。 これは、同年五月に施行された廃藩置県による中央集権体制の確立に合わせて、酒税制度の全国画一化を図ったものであった。 徳川時代の酒造株鑑札を廃止し、免許料さえ払えば酒造業を営むことができるようになったことは、地方に地主酒造家をたくさん輩出する契機となった。
このようにして、富国強兵策を推進しようとする明治新政府にとって、酒税は重要な財源と考えられるようになり、以後現在にいたるまでそのことは続いているといえる。 その新政府の酒税に対する考え方に大きな影響を与えたのが、福沢先生に「西洋事情」ではないかというのが、私の仮説である。